テレホンセックスの波打ち際で言葉を扱うということ

テレホンセックスの波打ち際で言葉を扱うということ

テレホンセックスの波打ち際で言葉を扱うということ

テレホンセックスは言葉でできています。およそ言葉でできていないテレホンセックスというものはありません。

テレホンセックスが言葉でできているということは、テレホンセックスは世界そのものであるということを意味しています。というのも、世界というものも言葉でできているからです。

テレホンセックスの快楽の頂点においては、言葉を失うような快楽に身を包まれて、言葉によって文節されるあらゆる区切りが消滅し、無分別の絶対無の領域にまで意識と存在が突入することがあります。

テレホンセックスというものは言葉を使ってしか進行させることができないものなのですが、その言葉の積み重なりの極点においては、言葉というものが機能しなくなるのですし、テレホンセックスというのは「言葉が機能しなくなる瞬間に向かって言葉を機能させる」という矛盾に到達することを目的にしてもいるのです。

テレホンセックスの初期段階において、テレホンセックスのために使われる言葉は極めて明確です。まず、ものの名前、指示対象の輪郭がはっきりと区切られています。

相手が女性であれば相手の女性の肉体の部位を一つ一つ切り分けるようにして言葉にしていき「○○が○○である(たとえば、女性器が濡れている)」というふうにイメージを言葉を休むことなく生成していかなければなりません。

テレホンセックスの最初の段階は、電話を持っている「私」と、回線の向こう側にいる「あなた」の間には厳密な区別があるのですが、テレホンセックスというものは最終的には「私」と「あなた」の区別が喪失する瞬間を目指します。

テレホンセックスの快楽の頂点において意識と存在が「言語不要の領域」にまで追い込まれるとき、テレホンセックスをプレイしている主体は、その主体性を失い、「私はあなたであり、あなたは私である」」というふうに、自分と相手の境界線を取り払い、完全なる合一状態へと突入しようとします。

しかし、こういった完全なる合一状態にいたるまでの道のりにおいては、テレホンセックスをプレイする「私」と「あなた」の境界線が揺らぐということはほとんどないのですし、また、言葉を具体的に積み重ねれば重ねるほど、「私」と「あなた」の境界線はより強固なものとして引かれていくことにもなるのです。

男性が相手の女性の「見ていない乳房」について言葉にするとき、その男性は「私にはないもの」である「あなたの乳房」について言葉を放っているのであって、そういった言葉を放つためには「あなた」は「私」ではなく「あなた」であるということを区別していなければならないからです。

テレホンセックスにおいて「私があなたであり、あなたが私である」という状態に到達するいとぐちは、たとえば、男性が「乳房」というときに、「あなたの乳房」ではなく「乳房」という言葉だけを意味と対象から切り離された状態で口に出すような瞬間にあらわれるでしょう。

もちろん、そういったときに、ふと冷静になって、「いや、あなたの乳房だ」というふうに、言葉が支持する対象と、「自分ではない」という意識が戻ってきた場合は、テレホンセックスは「合一」から遠ざかり、またひたすら果てしなく続く「区別」の連続へと戻ります。

融合しようとする言葉の働きと、分割していこうとする言葉の働きの、相反する矛盾するエネルギーが混じり合うところに、テレホンセックスをプレイしている渦中の途方もない快楽のダイナミズムがあるのです。

融合と分割がたえず揺れ動くその波打ち際に立ち続けることによって、テレホンセックスはある種の宙吊り状態に突入し、融合に一歩でも足を踏み進めようとすれば「意識の深層領域」へ、分割に一歩でも交代すれば「意識の表層領域」へと戻っていくことになります。

深層領域が海、表層領域が砂浜だと考えて、その深層と表層が重なり合う地点に立ち、寄せては返す深層と表層の波の戯れに身を任せる地点にまでテレホンセックスを持っていくということ自体が、まず一つの課題であり、この地点までテレホンセックスを持っていくことができるテレホンセックスプレイヤーというのは、実はあまり存在しません。

この地点までテレホンセックスを進めたテレホンセックスプレイヤーは、「海」の方向へと進もうとすれば溺れるようにして言葉を失ってしまい意識と存在を保つことができなくなり、「砂」の方向へと戻るとすると虚しい砂粒のような言葉を指の間からさらさらとこぼしていくだけになります。

テレホンセックスの快楽が頂点を迎える瞬間というのは、「海」のなかで一時的に溺れるということに近いのかもしれません。

一時的な「海」への突入から、溺死の直前に死にものぐるいで砂浜の側まで戻ってくるということの普段の繰り返しのなかで、いよいよ「海」そのものになるとき、「あなたはわたしであり、わたしはあなたである」というような融合と没我が達成されるのです。

「海」は「彼岸」であり、「砂浜」は「此岸」であるともいえるのですが、「彼岸」から戻ってきた場合、「此岸」の見え方は根本的に変革を迎えていることになるでしょう。

「彼岸」から眺め回して帰還した「此岸」というのは、ただただ「此岸」しか知らず「此岸」の側に身を置いていたときとは、そのあり方が書き換えられています。

テレホンセックスをプレイする目的というのは、おそらくは、こういった「此岸」の書き換えにこそあるのではないかと思われます。

テレホンセックスというものが言葉でできており、世界が言葉でできているということは、テレホンセックスを通して目の前の現実を書き換えることができるということを意味しています。こういったことを意識してテレホンセックスをプレイしている人の数はあまり多いとはいえませんが、現実の書き換えとしてのテレホンセックスは、これからのテレホンセックスの一つのモデルとなる可能性を秘めています。

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