テレホンセックスという行為内においてのみ評価される価値
テレホンセックスの内部で評価される要素は、テレホンセックス以外の場所で評価されることがありません。
テレホンセックスにおける価値体系というものは、テレホンセックスというプレイのなかで完結しており、それ以外の判断基準を拒否するような性質を持っています。
それゆえに、テレホンセックスが外部を拒否するように、外部もまたテレホンセックスを拒否することになり、外部の価値判断でテレホンセックスを見るときに、テレホンセックスは否定的な価値を与えられることになります。
たとえば「ドスケベ女」という言葉と、その言葉によって指し示される女性は、テレホンセックスのプレイフィールド上においては「最上位の価値」ということになります。
しかし、この「ドスケベ女」という言葉を、テレホンセックス以外の場所に置いてみますと、それまで「最上位の価値」であったものが、途端に嘲笑されたり敬遠されるようなものとして扱われることにもなります。
「テレホンセックスをプレイすることにおいて抜群のセンスを持っており、テレホンセックスに対するヴィジョンも明確で、かつ、そのヴィジョンを具体化するための声と言葉の能力も高い」というのが、テレクラにおける「ドスケベ女」です。
こういった「ドスケベ女」の長所を、当の「ドスケベ女」本人が仕事の面接などで高らかに朗々と述べている姿というのは、あまり想像できません。
TPOをわきまえずに、「テレホンセックス上では最上位とされる価値」を誇らしげに話すこの「ドスケベ女」が、面接に合格するということは、あまり考えられないことです。
人事を担当する面接官がテレクラとテレホンセックスに理解があり、また、性的な欲望も強いタイプであれば話は別でしょうし、面接の合否とは関係なくテレホンセックスをプレイすることを「ドスケベ女」に対して懇願する可能性もあるかもしれませんが、面接官がテレクラおよびテレホンセックスに理解がある性欲の権化であるというようなことはまずないと考えるのが自然です。
ですから、テレクラの「ドスケベ女」は、テレクラにおいては「ドスケベ女」であるということによって評価され、呼吸をするように卓越したテレホンセックスをするだけで崇められ、男性たちのうえに君臨することができるところを、実社会ではそれを隠して、それ以外の長所を見つけなければならないハメに陥るわけです。
「テレクラやテレホンセックスで褒められているのであれば、それ以外の価値基準によって改めて評価される必要はないのでは?」という意見を「ドスケベ女」に対して向けるような男性もいるかもしれませんが、そういった男性はテレクラおよびテレホンセックス以外の生活がない男性であるだけでしょう。
テレクラで誰よりも快楽的なテレホンセックスができる「ドスケベ女」にも生活というものがあり、その生活を維持するためには実社会との接触を避けることができないのですから、「ドスケベ女」以外の能力を使う必要が生じることになるわけです。
もちろん、「ドスケベ女」が、自分の長所のなかからテレクラおよびテレホンセックスという要素を捨象したうえで「私の長所。それは相手の話をよく聞くことができ、また、言葉にされる前から相手が自分に何を求めているのかを察する能力です。それでいて、完全に相手に合わせて依存するのではなく、自分がどうありたいか、そのどうありたいかというイメージに到達するためには、どのような実践的な行動が有効であるかを自分の頭で考えることができ、また、考えるだけでなく実際に行動もできるのですし、その行動において思考とは違うことが出てきても臨機応変に対応し、予想していたのとは違う場所に向かうことを積極的に楽しむ冒険心を持っています」とでも言い換えることができたならば、テレクラやテレホンセックスにあまり理解がない面接官を相手にして関心を惹き寄せ、「この人を採用してみようかな?」という気分を刺激することも可能でしょう。
しかし、「ドスケベ女」というのは、上記したような言い換えの「長所」を、すべてにおいて適応できるのではなく、ひたすら「テレホンセックスのみ」に能力を注ぎ込む限りにおいて「ドスケベ女」であるのですから、テレクラやテレホンセックスを知らずに「ドスケベ女」を採用することに決めた担当者は、「ドスケベ女」の言葉と仕事の落差に驚かされ、小首をかしげ、「失敗」の二文字を脳裏に浮かべさえするでしょう。
面接官が「ドスケベ女」から聞かされた長所を、「ドスケベ女」から真に受け取るためには、「ドスケベ女」とテレホンセックスに興じるしかありません。このテレホンセックスにおいて、面接官ははじめて「なるほど、彼女が言っていたことは本当だ」ということを、テレホンセックスによる快楽を通して全身で理解することになるでしょう。
「ドスケベ女」は、テレクラやテレホンセックスで発揮できる才能の一部を実社会においてもある程度は行使することができますが、それはあくまでも「ある程度」でしかありません。
「ドスケベ女」が、もし、自分の能力を思う存分に発揮し、また、その能力を発揮することを通して「生きている」という感覚を十全に受け取りたいのであれば、やはり、テレクラを利用し、テレホンセックスをプレイするしかないのではないかと思います。
そして、この「ドスケベ女」の話が、テレホンセックスをプレイする強すぎる性欲の持ち主である男性主体においても適応されるものであることは言うまでもありません。
テレクラやテレホンセックスを通して「なにか、役に立つ能力を手に入れたかも」と勘違いした男性主体が、それを実社会で適応しようとしたときに、それがテレホンセックスでないばかりに能力をほとんど発揮することができない、ということは往々にしてよくあることです。
やはり、そういった能力は、テレクラで、それも「ドスケベ女」という自分という主体と同程度の性的才能がある女性を相手にして、テレホンセックスという快楽の場のうえで使う以外に、真の使いみちはないのです。
自分の探求が、テレクラおよびテレホンセックスの探求であると知り、テレクラおよびテレホンセックスの探求がテレクラとテレホンセックス以外の何にも役立つことがないということにむしろ喜びを感じながら、テレクラおよびテレホンセックスの探求によって得られる何の役にも立たない能力を鍛え上げていき、その探求をしなかった人間には絶対に獲得できないような極上の快楽を堪能しましょう。
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