賭けとしてのテレホンセックスと「私」の濃度
テレホンセックスはオナニーなどと違ってプレイをすることになる相手がいないと成立しない性行為ですから、「私」の表現であると同時に、それ以上に「あなた」の表現であり「わたしたち」の表現でもあるということを忘れるわけにはいきません。
テレホンセックスをオナニーの延長線上のものとしてとらえ、相手を自分自身の身勝手な自慰行為のための道具として考えているテレホンセックスプレイヤーや、テレホンセックスを「私」の表現として構築しがちであり、テレホンセックスを成立させる最低条件であり最重要要素である「あなた」という観点がすっぽりと抜け落ちてしまっていると言わざるをえません。
テレホンセックスにおける「私」の濃度、そして「あなた」の濃度、それによってまじりあい立ち上がってくる「わたしたち」の濃度をいかに濃くしていくか、ここを濃くしていくために、いかに「私」の濃度を制御していくかというのは、より快楽的なテレホンセックスに辿り着くための一つのコツであるかもしれません。
「私」が濃くなりすぎれば相手をないがしろにすることになりますし、あまりにも「あなた」を濃くしすぎたならば私というものをないがしろにすることになります。
もちろん、前者にせよ後者にせよ、それがテレホンセックスとして「間違っている」というわけではありません。
むしろ、このあたりに自覚的なテレホンセックスプレイヤーは、徹底的に「私」であるテレホンセックス、または、「私」が消滅するテレホンセックスというものを意図的に採用し、そこから快楽を汲み取るためにテクニックを駆使することができるというのも一方では事実です。
しかし、「私」を色濃くするにせよ「私」を消滅させるにせよ、最終的に「わたしたち」のテレホンセックスであるという着地点が見えていない限り、こういった意図的な採択をとることはできないのではないかと思います。
多くのテレホンセックスは、ほとんどのケースが、自覚がないままに、ただのわがままとして「私」の濃度がいたずらに濃くなっているだけであったり、相手のエロさに圧倒されたり応答で精一杯になって「私」が欲望とは別に消滅してしまっているかのどちらかであるように思われます。
「欲望」という言葉を使いましたが、「私」の濃度を強めること(それが結果的に「わたしたち」のテレホンセックスに繋がっている)や、「私」を消滅させること(同上)ということに「欲望」があり、そこに意志が働いているかどうか、ということが重要になってくるのではないかと思います。
テレホンセックスは完全に自分のためにするものではありませんが、同時に、自分のためだけにするものです。この別の方向に同時に走り出そうとする相反するベクトルを携えながら、それぞれの「欲望」をどのように制御し、また解放していくか、ということが、テレホンセックスでは問われることになるでしょう。
こういった基本姿勢を保ちながらプレイを敢行する難しさを、テレホンセックスをプレイする「私」だけが理解している状態では「わたしたち」の濃度を濃くしていく快楽的なテレホンセックスに到達することはできません。
テレホンセックスをプレイすることになる「私」と、相手となる「あなた」の間には、ひとつの共通認識、前提の共有が必要ということになります。
テレクラに電話をしてテレホンセックスをプレイするというのは、ひとつの「賭け」でもあるのですが、その「賭け」というのは、相手がこの前提を共有できる相手であるかどうか、というところに賭けられているでしょう。
テレホンセックスプレイヤーは、テレクラで電話が繋がったその場かぎりのテレホンセックスのパートナーが、この濃度にまつわる前提を共有しているのだ、ということを全面的に信じてきった状態で言葉を投げかける必要があります。
たとえば、「私」のほうが基本姿勢となる前提を理解していない場合、相手となる「あなた」が投げかけてくれた「賭け」としての言葉を受け取ることができません。逆もまたしかりです。
「賭け」としての言葉を投げかけることができるテレホンセックスプレイヤーが一人でも多く増えることによって、テレホンセックスのプレイフィールド(=テレクラ)全体の土壌が豊かになるでしょう。
テレホンセックスプレイヤーによる「賭け」は、それまでこの前提を共有していなかったテレホンセックスプレイヤーの認識を、テレホンセックスを通して変革させる可能性を持っています。
テレホンセックスプレイヤーの「賭け」は、それを共有していない相手に向けて放ちつづけることに大きな困難がともないます。
「賭け」を貫き続けるテレホンセックスプレイヤー以上に、テレホンセックスに対する「賭け」を諦めてしまうテレホンセックスプレイヤーが多いのは、「賭け」が基本的には敗北を前提として投げかけられる過酷なものであるからでしょう。
しかし、より快楽的なテレホンセックスのために、その過酷さを乗り越えて「賭け」としての言葉を、届くかどうかわからない相手に向けて放ち続けることをやめないテレホンセックスプレイヤーは存在し、ほとんど狂気的ともいえるこういった言動によってのみ、「賭け」を信じ続けたテレホンセックスプレイヤーは理想的な「わたしたち」のテレホンセックスによって報われるのです。
もちろん、テレホンセックスによって報われることは稀であるということは忘れてはなりませんが、「奇跡」というものはそういうものであり、もしそれが「稀」でなかったならば、「奇跡」としてのテレホンセックスの快楽というのはそれほど強烈なものではなくなってしまうことになるでしょう。
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