テレホンセックスという反英雄的行為についてのメモ
テレホンセックスというのは「人に評価されるもの」でもないですし、そもそも「それをプレイしていることを公言してはばからない」というようなものではなくて、基本的には「人に隠れてプレイする」ものです。
家族、友人知人などに「テレホンセックスをプレイしている」ということがもしバレたならば、バカにされたり、ドン引きされたり、社会的信用を失うという結果に繋がることはあっても、「すごいね!」というような好意的なリアクションが返ってくることはまずないと考えたほうがいいでしょう。
つい先日、あるバラエティ番組のなかで「テレホンセックスをプレイしている」ということを暴露された芸人を見ましたが、スタジオ内の雰囲気はというと、完全に「テレホンセックスをプレイしている人間を笑ってよい」「テレホンセックスというプレイおよび、そのプレイヤーはどこまでも馬鹿にしてよい」という空気に満たされておりました。
そして、実際に、テレホンセックスというのは「思わず笑ってしまうもの」でもありました。
そのテレホンセックス愛好家芸人によるテレホンセックスの再現には、男性としても人間としても実に完膚なきまでに情けなく、「人というのはこんなにかっこわるい存在になれるものなのか」という衝撃的な破壊力があったのです。
やむなき事情からテレホンセックスなどというものをあるていど擁護する立場をとらなければならない私としても、再現されたテレホンセックスが「おもわず馬鹿にしたくなるような滑稽さ」に満ちていることを認めなければならなかったのですし、実際に画面に向かって「こればっかりは、どうしようもないな……」と呟いてしまったことは白状しなければならないでしょう。
このようなテレホンセックスですから、テレホンセックスをプレイするということは、可能な限り隠さなければなりませんし、それをプレイしているということが「誇り」や「自慢」や「ステータス」になるということはまずありません。
テレホンセックスというものに「有名テレホンセックスプレイヤー」というようなスターとよべる存在がいないという現在の状況は、テレホンセックスというプレイに内在する拭い難い情けなさと誇れなさと秘匿性によって起こっていると考えてよいでしょう。
この「テレホンセックスのスターがいない」という状況は、しかし、テレホンセックスにとっては果たして不幸なことなのでしょうか。
私は、テレホンセックスに限らず、あらゆる領域において「英雄」というものはなるべくいてはいけない、英雄を求める心情があってはならない、という考えを強く持っています。
英雄の存在がなければ成立しないようなもの、あるいは、多くの人が英雄を求めるという状況、また、英雄になろうとする人たちの存在がいるということは、「英雄を必要としないもの」に比べると遥かに不幸であると言わざるをえません。
テレホンセックスは、その倒錯した変態プレイのあまりのみっともなさによって、「それをプレイするものが絶対に英雄になれない」という一点において、他の何よりも幸福である判断することも、もしかしたらできるのかもしれません。
スターになりたい、英雄になりたい、と考えてテレホンセックスをプレイする人間は、現在のところ一人もいないのではないかと思います。
もしいるとしたら、そんな英雄志望のテレホンセックスプレイヤーがどんなテレホンセックスをしているのか、興味本位で盗聴してみたい気持ちもあります(テレホンセックススターシリーズというような「細かすぎて伝わらないモノマネ」も見てみたいものです)が、かといって、「テレホンセックスを通して英雄になろうとする姿勢」それ自体を肯定することは、やはりできません。
テレホンセックスの過激かつ独創的プレイで多くの凡庸なテレホンセックスプレイヤーから尊敬を集めたりだとか、テレホンセックスプレイヤーのなかで覇権をとろうとする人間が一人もあらわれないということは、テレホンセックスにとっては、実に幸福な状況であると私には感じられます。
テレホンセックスというプレイに、もし肯定すべき面や、そこからなにか学ぶものがあるならば、逆説的ではありますが、おそらくはこの「何も誇ることができない」「反英雄的である」という点からのみそれを見出すことができるでしょう。
テレホンセックスは違いますが、テレホンセックス以外の自分の行動を、人はなにかしら「誇り」に思いたいものです。
あるいは、自分だけを見つめている限りにおいては何も「誇れるもの」がないから、自分以外のなにかに「誇り」をたくし、そのたくした対象の行動を自分と重ねることで、「自分もまたなにか優れたことをしている」と考えたいという心情も無視することはできないでしょう。
「英雄」というのは、自分がなる場合は前者、他人にそれを求める場合は後者の動機が根本にあるものと考えられます。
前者であれ後者であれ、こういった「英雄」を求める心情のおおもとの動機は、それが悪い方向へいけばナショナリズムなどと繋がります。
ナショナリズムと英雄というものが結びついた場合になにが起こるかについては、歴史を参照すれば、その悲惨を多く見出すことができるでしょう。
テレホンセックスというのは、みずから「何も誇れない自分」になる営みです。また、テレホンセックスをやっている誰かを自分のかわりに「誇らしい存在」にすることもできないものです。
私は、テレホンセックスの反英雄的な側面は、テレホンセックスだけでなく、テレホンセックス以外の領域においてももっと広まっていけばいいのではないかと考えています。
何一つとして誇ることができず、自慢することができないばかりかただただ馬鹿にされ足蹴にされるばかりのテレホンセックスをプレイするということは、自分をえらく見せようとする、あるいは、他人を英雄にすることで自分もえらくなったような気がする、という人間の悪徳に背を向けているという一点においては、じつに「ほこらしい」側面を持っていると言うことができるかもしれません。
それに、世の中では「なにか価値があること」だとか「それをしていることが誇りであること」となっているものと、テレホンセックスというものの間には、実はそれほど違いがないとも私は考えています(テレホンセックスと同様にクソであり、自慢できないどうしようもない営みであると考えているわけです)。
「自分がいまやっていることとテレホンセックスはそれほど違いがないのかもしれない」という考えを持つことから、自分の行為を冷静に見つめる眼差しと、自分の行為に関する思い上がらない謙虚さを獲得していくというのもアリではないでしょうか。
より小さくなっていくための営み、自分から自分を惨めにしていく営みとしてのテレホンセックスの消極的な可能性について考えていくための余地はひろく、ここはまだまだ掘り尽くされてはいない未開拓の領域であると感じられます。
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